わたしにとってEquityとは何でしょうか?

この言葉にまつわる出会いやエピソードを教えてください

わたしは「根源的な社会システム変容を世界中で現わす」「変容の共踊者(きょうようしゃ)である」ことを探究しています。Equityは社会変容の源であり、何よりわたしたちが自分と世界をつなぎ直し、自身の中にある物語を変えていく鍵だと感じています。ただ、わたしはやっとEquityの旅をはじめたくらいで、Equityを中心に置く大事さに気付くまでに、長く時間がかかりました。

高校生のときに志してから18年ほどコレクティブ・インパクト(以下CI)を通した社会変容を試行錯誤する中で、多くの社会が変わっていく場に立ち会う機会を得ました。多くのひとの笑顔や安心をみた一方、社会システムにしみ込む構造的な不平等の変化(力の移行や集団意識の変容等)には時間がかかり、また世界中のCI事例のように、数百数千の主体が10-20年共創する生態系の実現までにも、様々な難しさを感じました。2022年にCIの定義が大きく変わり、システムチェンジやポピュレーションレベルチェンジを目的にすることに共感しつつ、Equityを中心に置くことに驚きがありました。

そして「コレクティブ・インパクト」を世に発表した共著者のひとり、ジョン・カニアさんの記事「Empathy, Integration, Letting Go & Surprise(佐藤一部訳はこちら)」にて、根源的な社会変容には社会構造が生まれる器づくりが必要という新たなTheory of Change(変化の理論)をみて、ああ、わたしが表現したい社会変容はこれかもしれないと救われた気持ちになりました。その後、シュワブ財団『ソーシャルイノベーション思想的指導者2022』にも選ばれたアダム・カヘン氏のセッションに参加したとき。社会変容を生むのは、個々の原動力でありパワー、ラブ、ジャスティスが発揮されたコラボレーション。ジャスティスは不公正を生み出す構造を変えようとする衝動で、Equityと根底で通ずる。ここで鍵になるのが知恵と意欲があるひとが、貢献できない構造を減らす変容型のファシリテーションだと学び、よりEquityの探究を始めようと想いを深めました。

なぜ、それを大切に思うのでしょうか?あなたの中に、この言葉と響きあうものがあるとしたら、それは何でしょうか

わたしは、世界中に、あきらめなくていいと、笑いながら、ともにシステムと踊って根源的な変容を起こし続けたいという願いがあります。その裏側には、肚のそこから湧き上がる、無力感や報われないことへの抗いがあります。不思議な話をするなら、わたしの過去生では似たような社会変容を繰り返してきたようで、流しの治世者や神官としてみなが幸せに暮らす国を実現しながら、恐怖にかられた他の権力者に蹂躙されてきたと。

わたし自身は大きな物語に焦がれる小さなひとりで、だれかのためなど考えておらず、ひたすら自身の源泉からあふれる表現をしていきたいだけだとも思っています。昔、音楽ライブで周りの目が気になって、思いっきり踊れず大きな声も出せなかった。でもあるLGBTQの映画祭のイベントにてDJの音楽ではじめて自然に身体が動いて、自分が会場に溶け込んだ感覚を得たとき、また30歳過ぎて初めて髪を染めたとき、自分はここにいていいしもっと表現できるんだと開放されました。

たぶんわたしは、自身の源泉から表現するひとを愛していて、たとえ敵対していても願う社会に向けて共創することが、様々な痛みや物語とつながり、表層的・短期的ではない根源的な社会システム変容を起こすと信じています。Equityは、そんな願いとつながる大事な入り口であり、プロセスだといまは考えています。

Equityを真ん中に据えたとき、あなたの中にどんな「願い」が浮かび上がってきますか?

Equityを中心に旅をしていくことは、とても緊張と怖さがあります。わたし自身の痛みや特権性を取り扱うと、胸がぎゅーっとしめつけれて苦しくなり、落ち着かず、なぜここまでしなければいけないのかと迷いが浮かびます。私の大切なひとたちが傷つけられるとき、頭に血が上り衝動に身を任せたくなったり、涙があふれて悲しくなるときも多々あります。また、これまで様々な社会変容に携わる中で、痛みや恐れに触れた、対立した、届かなかったことが数えきれないほどあります(そして私が見えていないものはその何倍もあるでしょう)。

非暴力コミュニケーション(NVC)やシステム・コーチ(R)、プロセスワーク等々様々な知見を学び、だからこそ心からわかりあえたことや、CIイニシアチブのリーダーたちのトランジションに少し伴走できたこと、自組織や協働事業を内側から変容しながら進められた嬉しさもあります。

だからこそ今後は、Equityを真ん中に据えた根源的な社会システム変容を、世界中の仲間たちと探究し、日本の源から表していきたい。そしてわたし自身が変容の共踊者として、怖さも痛みも受け止めて、そのシステムに必要な変容をみなと(人間だけでなく)踊っていけたらと願っています。ひと段落したら、あー、よかった!と、地元茅ヶ崎の海岸で日向ぼっこしたいです。