この言葉にまつわる出会いやエピソードを教えてください
SVP東京で働いたご縁で、アメリカのSVP Internationalカンファレンスに参加していたとき、はじめてEquityという言葉に出会いました。2014年当時は、インパクト投資や、コレクティブ・インパクトと同じような新しいコンセプトのひとつという感覚でした。
それ以降、毎年カンファレンスに参加するごとに、SVP InternationalでのEquityの重要性は増していきました。関連する知識やワークショップが次々と紹介され、基調講演はすべてEquityをテーマにした内容へと変わっていったのです。そして中身を理解しようにも、これまで聞いたことのない考え方が多く、なぜ今この話をしなければならないのか、と戸惑いました。
正直、年を追うごとに変わっていく雰囲気に、「ちょっとついて行けないな」という気がしてきました。しかし、組織を代表している立場として、東京にいる人たちに伝えなければならないので、なんとか自分なりの理解を伝えていましたが、当然、うまくいきませんでした。
SVP東京を離れた後も、SVPがEquityへと大きく舵を切ったこと、それをきちんと受け取れなかったことにずっとモヤモヤとしていました。いつかどこかで、理解したいと思い続けていました。それが、Equityとの出会いであり、この探求の出発点です
ただ調べて理解するだけのことに、どうしてこれほど時間と情熱を傾けるようになったのかは、自分でもよくわかりませんでした。いまでも時々思いだすのは、SVP Internationalで出会った人たちのことです。彼らの多くは、アメリカ社会において仕事でも地域でも豊かな人生を手に入れ、さらに、社会課題に積極的に取り組んできた人たちでした。SVPという組織を見ても、海外進出や組織の拡大という面で、成功を収めていました。
その彼らが、社会状況にみずから自己内省と自分たちがしてきたことへの反省をはじめたことに、わたしはとても驚きました。それまでの、先端的でポジティブな議論が、どんどん内向きでシリアスな空気感になっていくのを肌で感じました。
そこには、それまでのような「カッコよさ」はありませんでした。垣間見えたのは戸惑いや弱さを受け入れ、混乱や葛藤を隠すことなく模索する姿。
わたしは、成功と豊かな人生を手にしながらも、深い自己内省に向き合う彼らの姿を目にして、あらためて尊敬の念が湧いてきました。そこに「自分自身を変えなければ社会を変えることはできない」という信念を感じたからです。
Equityの探求は、わたしにとって、予想していたよりずっと難しいものでした。ジェンダー、人種、格差といった複数の分野にまたがるだけでなく、いままで触れたことのない、社会学や文化人類学、歴史学、政治学などの研究領域が重なり合っています。
探求の途中では、Equityを入り口にしながら、見えない特権、集団的トラウマ、人種的癒やし、脱植民地化、土地に根ざしたイノベーションなど、さまざまな運動がつながり合っていることが見えてきました。
それは、光り輝く大きな歴史の流れと異なる、地下水脈のように流れる深い痛みと闇の小さな流れ。今まで聴かれることのなかった、あるいはわたしが聞くことがなかった、抑圧され、見過ごされていた人々の声。
わたしは、しだいに深い森に迷い込んでいくような感覚を覚えました。そこには、たしかに悲しく、重苦しい物語が、鬱蒼と茂っています。しかし、この木々はわたしたちが生きている世界をたしかに支えています。わたしはこの物語を、目をそらさず見つめていきたいと思うようになりました。
取り残された、悲しみや痛みを、「悪いもの」「癒やすべきもの」ではなく、そのまま抱きしめる。その痛みが、時間と場所を超えて、やがて誰かの痛みとつながりあう。この探求の先に、そんな景色がどこかにあるのではないか、という予感がしています。わたしは、この景色がわたしたちが「Equity」と同じかどうかわかりません。そして、この予感が「希望」や「願い」と、呼べるかはわかりません。
Equityを入り口とした探求。その途中でいま、わたしの中にはそんな景色と予感をぼんやりと思い浮かべています。