感じたこと


内容


引用メモ


<aside> 💡 イギリスのミュージシャンでプロデューサーのブライアン・イーノは美大で学んでいたころ、ピカソ、カンディンスキー、レンブラントなどの個人が芸術革命を生み出したと教えられた。だがイーノはこうした革命家たちが、実は「多くの人々が織りなす豊穣なシーン」から生まれたことに気がついた。「芸術家、収集家、キュレーター、思想家、理論家──こういった人々が、才能の生態系のようなものをつくりあげていたんだ」 イーノは彼らを「シーニアス」( 天才 とシーンをかけた造語) と呼ぶ。「シーニアスとは活動全体、集団全体の知性だ。文化について考えるときは、この概念のほうが役に立つと思うね」 この概念は、ペイパルについて考えるのにも役立つ。ペイパルの物語は、消費者向けインターネットの草創期を舞台に、数百人の人生が交差し、影響を与え合った物語として理解するのが

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<aside> 💡 オレンジ色のハイライト | 位置: 408 レヴチンの才能はソフトウェア開発にあった。バニスターはときどきプログラミング言語のパール(Perl) でコードを書いていた。パールは実用性は高いが洗練さに欠ける、「インターネット用ガムテープ」とも 揶揄 される言語だ。レヴチンは震え上がって「そんな醜いものを近づけないでくれ」と抗議し、バニスターは喜んでコード書きをレヴチンに任せた。 「マックスがいたから、僕はプログラマーになるのをあきらめたんだ」とバニスターは認める。「あれだけの才能を見てしまう

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<aside> 💡 オレンジ色のハイライト | 位置: 428 レヴチンの時間割は技術系科目が占めていたが、心に残った授業は別だった。 20 世紀の名作映画を研究する授業で黒澤明監督の「七人の侍」を知り、夢中になったのだ。 「史上最高の傑作だと思ったね」とレヴチンは言う。「あんな映画は見たことがなかった」 夏休みの間、3時間 27 分のこのモノクロ映画をかじりつくように見続けた。「テレビとエアコンさえあれば何もいらなかった。あの夏は『七人の侍』を 25 回は見たよ」。その後レヴチンはこの名作を100回以上も鑑賞し、「経営者に必要なすべて」を学んだという。 一方、社交生活の面ではついに恋人ができたが、コード書きに明け暮れていたせいで関係がこじれてしまった。「彼女の家に行っても、コードを書くためにすぐにトイレにこもっていた」 彼女はドアをノックした。「ねえ、そんなところで何してるの?」 「何って、君とデートしてるんだよ」とレヴチンは困惑しながら答えた。 「ちがうわ。あなたはトイレでコードを書いてる

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<aside> 💡 オレンジ色のハイライト | 位置: 919 ネットスケープの線が消えると、大学院に行くか、インターネット企業を立ち上げるかで悶々と迷った。「未来に最も影響を与えることは何だろう、僕らが解決すべき問題は何だろうと考えていた」。ペンシルベニア大学時代、彼は近未来に大きなインパクトを与える分野をリストアップした。インターネット、宇宙開発、再生可能エネルギー。だが未来を変える分野にこの自分が、イーロン・マスクという人間が影響をおよぼすには、いったいどうしたらいいのだろう? マスクはピーター・ニコルソンに相談した。トロント界隈をゆっくり散策しながら、二人で次のステップを考えた。ニコルソンはマスクの背中を押した。「いいか、イーロン。インターネットのロケットはぐんぐん上昇している。君のアイデアに賭けてみるのに、いまほど絶好のタイミングはない。博士号なんていつでも取れるじゃないか。その機会はこの先もずっとテーブルに置かれたまま

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<aside> 💡 オレンジ色のハイライト | 位置: 1,006 だが拡大には代償が伴った。 96 年秋、マスクはZip2の投資家と経営陣に経営手腕を疑問視され、対立した。せっかちで、つねに睡眠を削って働いていたマスクは、無理な期限を設定し、経営陣や同僚を人前でこきおろし、他人のコードを勝手に書き直した。 マスクはのちにこうした欠点を認め、自分はZip2を経営するまで何かを運営した経験がなく、「スポーツチームなどのキャプテンを務めたことも、人を管理したこともなかった」と告白している。同僚の仕事を勝手に直して人前で恥をかかせ、嫌われてしまったときのことを、伝記作家のアシュリー・ヴァンスに語った。「やっとわかった。僕は間違いを直してあげたつもりだったのに、そのせいで相手はやる気をなくしてしまったんだと。あれはいいやり方じゃなかっ

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<aside> 💡 オレンジ色のハイライト | 位置: 1,406 シモンズは卒業後、UIUCに残り、大学院でコンピュータサイエンスを学んでいた。「僕は人生を戦略的に考えたりしない」とシモンズは言う。「だから就職のことなんて考えずに、『大学院にでも行くか』と。起業したり、シリコンバレーに行ったり、そういうことには何の興味もなかった」 98 年9月にレヴチンから連絡を受けたとき、シモンズはもう修士課程に飽きていた。中退してテキサスでプログラミングの仕事でもしようかと思っていると、レヴチンに返事をした。レヴチンは、代わりにカリフォルニアに来ないかと誘った。「ここはほんとにいいところだから、ここに来てクールなことをするといい」とメールに書いた。その年の暮れ、「クールなこと」はフィールドリンクの仕事になっていた。 ユー・パンと同じく、シモンズも安心材料がほしかった。「マックスの頭がいいのは知っていたけど、『本気だろうか? 行ったら本当に仕事があるのか?』と疑ってい

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<aside> 💡 オレンジ色のハイライト | 位置: 1,568 トム・パイトルは博士になれるほど優秀だった。ボロ靴を取り替えないほど反逆的だった。自由に使える時間があった。モバイルウォレットで世界制覇するという構想をおおらかに受け入れた。才気、反骨心、時間的余裕、不信の停止──これらがコンフィニティの初期のメンバーの特徴であり、その後の企業文化の基盤となっ

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<aside> 💡 オレンジ色のハイライト | 位置: 1,779 それはさておき、ティールはこのイベントに満足した。「僕らはあの歴史に残るイベントで、群れから抜け出した」と語る。メディア露出のおかげで、それまでの苦労が噓のように、投資家の引き合いも求人の申し込みも増えた。 だが、そうした関心はユーザー獲得につながったとは言いがたい。パームパイロットのビーム送金を問い合わせる電話はただの一件もなかった。 「あれは、パブリシティについて僕らが早くに学んだ教訓の一つだ」とノセックは言う。「あのイベントはプロダクトの普及というよりは、求職者や投資家への認知度を高める方法としての意義がずっと高かった」 だがバックスビームが発した最も重要なシグナルは、社内向けだったかもしれない。レヴチンとティールが率いるこの小さな集団は、メディアに、それもテレビにまで取り上げられるほどのプロダクトを、ほんの数か月で生み出したのだ! チームは自信を深めた。「僕らは未来を信じたかったんだろうな」とノセックはしみじみ

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<aside> 💡 オレンジ色のハイライト | 位置: 1,894 レヴチンは採用のハードルを非常に高く保っていたと、エンジニアのサントッシュ・ジャナーダンは証言する。そのせいで人材獲得のスピードが落ちても仕方がないと、レヴチンは考えていた。「マックスは口癖のように言っていた。『A級の人材はA級を雇う。B級はC級を雇う。だからB級を一人でも雇えば、会社全体が傾いてしまう』と」 おまけにコンフィニティの経営陣は、チーム全員がすべての候補者に会うことを義務づけた。そして時間のかかるこの総当たり面接、いわゆる「相性テスト」が終わってから、チーム全体で議論して採否を決め

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