いつの間にか苦手な季節である夏が過ぎ去ろうとし、秋が顔をのぞかせている。自分にとっての秋はどんな季節だろう。ジムにトレーニングウェア1枚で行くには少し肌寒いが動き出すとちょうどよくなる程度の気温。心地よい湿度。どこからともなく金木犀の香りが漂ってくる時分。自分の身体が動くことによってどの程度発熱するかを目測せずに衣服を選んでもどうにかなる季節。あれ、筋トレを始め体重が増える前の記憶が思い出せない。あ、部活の大会シーズンが始まり、胃がキリキリするような練習の日々が続く季節。 夏は世界が浮かれているような気配がして、そんな気配についていけない自分を見せつけられているような気がして、気が引けてしまう。うまく生きられない自分に、世界と同様の歩調で歩けないに自分に、無邪気にはしゃげない自分に。そんな自分も自分なんだけどね。

でも、秋なら。秋はいいよね。生きてていいと思える。年中生きていていいに決まっているのだけれど、こんな自分でも、世界が祝福してくれている気がする。空気のにおいや、快適な気温、自分を心地よく生かすために一年の中で数週間の間だけ、誰かが丹念に用意しておいてくれたのかな、と思わず考えてしまうような祝福の予感がする。「蜜蜂と遠雷」「祝祭と予感」恩田陸 を読んでいるときみたいな気分。

https://twitter.com/nishi_hy/status/1182850793327620098?s=20

世界が、他人が、何を考えているのかなんて、実際は全くわからないけれど、ぼくが接している外界が示す反応から勝手に感じ取る気配や身体感覚がそう言っている。ぼくはぼくが捉えた直感的な感覚を大事にしてあげたいし、それを言葉にしたり、言葉にできず悶えたりしている。そんな自分を自分で大事にしてあげないと、自分が何を大事にしたいのかわからなくなってしまう。

そもそもここ1年の間、季節が日に日に移り変わっていく様子を目の当たりにすることがほとんどなかった。外出するにしても毎日同じルートを通勤や通学のように歩くわけでもない。ジムには高頻度で行くが、ルートは気まぐれだし、移動手段も自転車や徒歩だったりとまちまちである。 生まれてから20数年間、毎日毎日、外界と接触することを意図せずとも実施してきていたが、そんな自分の行動様式は変わってしまった。それによって自分に内的・外的な変化が発生しているように感じる。これまで日常の中にあった意図せず繰り返していた行動の中で、季節の移ろいを鋭敏に受容・知覚していた自分の感覚器官のセンサーが衰えているのではないか、と怖い。 繰り返される毎日の中から差分を感じ取るセンサー、注意深くならなくとも何かが変わっているということに気がつけるセンサー、些細だけれど自分にとって大事だったはずの変化を捉えるために意図せず鍛えていたセンサー。違和感を感じ取る自分の肌感覚のようなものを信頼していたのだが、それがどこかに飛んでいってしまったのではないかと危惧している。 雨が降りそう、夏が終わりそう、今日は秋の匂いかも。今日、秋が始まったね。なんか無性に柿が食べたい。あの人元気にしてるかな? そういう、自分の中で立ち込める気配や、自分と世界との境界にあるようなものたちとのつながりを意識・把握するような能力を使う機会や言語化の機会がめっきり減った。 自宅に篭もり、リモートで延々と仕事を続けている日々によって失われてしまった。仕事に通勤が伴わないことや、肉体を媒体としたコミュニケーションが不要であること、によって担保されていた自分の感性が存在したように思う。 特に精神的な内省の時間は以前よりも取りやすくなった反面、身体的な接触や対話による自分の意思表示を行う能力は間違いなく低下している。ぼく、こんなに話すの下手くそだったっけ、とよく思う。

その代わりに発達した能力はあるだろうか。以前よりも人と関わろうとするために意思表示する能力は高まったかもしれない。それはこれだけ閉じた環境に閉じた姿勢でいたら自分と他のつながりが希薄になるから。自分の存在を、他と差異のある相対的な存在として認知しにくくなる。ぼくって何だろう、ぼくって? とインターネットの海に叫び、返ってきたのか返ってきていないのかわからないようなやまびこめいたものにすがりつきながら生きていくのはしんどい。ぼくは一人が好きなはずなのに、他者と自分の差異を対面のコミュニケーションで感じることに楽しさや充実を見出しているのか。変な奴め。オンラインのコミュニケーションで充足できるものと充足できないものがあるんだね。