今日は筋トレについて書く。

ぼくにとっての筋トレは、極めて内向きで個人的な行為です。(たまに人と比べてしょぼくれることもあります。たまにではなくてしばしばか。) 受験生にとっての勉強みたいなものです。 上手になったら、偏差値が上がったら嬉しい、下がったら悔しい。ハチャメチャに賢い人間に出くわして消えてなくなりたくなる。けれど、どうにか賢くなりたい、できないことができるようになりたい、自分が試行錯誤して努力してどうにかならないかと頭を煮やすように考えた結果少しずつ自分にできることが増えていくあの感覚。あの感覚を楽しいと思う感覚が、筋トレを楽しいと思う感覚に極めて近いのかもしれない、と思うようになりました。

人生長くなってくると、受験勉強みたいにわかりやすく成果が出るような活動は減っていく。 筋トレは健やかな論理が適用される世界線なので、適切な栄養と睡眠と筋トレを自分にぶち込めば、何もしていないときに比べて身体が変化していくことを実感できる。 自分の身体を自分の制御下に置いて、自分の意志によって自分のことをコントロールしている感覚は、なんとも言えない心地よさがある。 もちろん自分のことをコントロールできていようができていなかろうが、自分のことを愛し自分のことを好きでいられたらいいなと思う。でも自分はそういう系統の人間には生まれ育つことができなかった。 それが先天的なものなのか、後天的なものなのか、自分に原因があるのか、生育環境によるものなのかはわからない。でもどちらが幸せなのか、自分にとってどちらが良かったのかはもう考えても無駄だと思っているので、自分にできる手法を試行錯誤しながら実行して、自分に適した自己肯定めいた思考ができるように意識的に努めている。 ぼくはこういう活動のことを自分の中で勝手に「人工的な自己肯定」と呼んでいる。

高校生のころのぼくには勉強しかなかった。ので簡単にめげた。一点集中投資はだめだった。めげたときに助けてくれたのがYUKIだった。

https://twitter.com/nishi_hy/status/1391383018166571009?s=20

人工的な自己肯定は万能ではない。すぐにめげる。 筋トレをしていてもうまく行かなかったり、極めて短い期間で特筆すべき成果を上げている他人を目にして消えてしまいたくなることがある。自分ってなんてだめなやつなんだろうと思って消えたくなる。

知人に話したら「そういうすごい人達はどうせ積分ができない」と思えばいいんだよ、と言われてクスりと笑ってしまった。そう思って自分を慰めることは可能だけれど、その思考は何の解決にもならない、解決できるとも思っていないのだが。

でも、ずっと、ずっと筋トレを継続しているという事実だけは消えない。 最初は筋トレなんて、運動なんて、選ばれし才能がある人間にしかうまくできない活動であり、ぼくには縁遠い世界の話だと思っていた。でもいろんなインプット*に触れて、自分で筋トレをすることを選択して、継続してきたという事実だけは消えない。

https://twitter.com/nishi_hy/status/1387025709890035713?s=20

それだけがぼくにとって確かなことで、それにすがりついているところがある。だから筋トレはぼくの構成要素の一つであり、自分が(なけなしの)自信を持って生きていくために必要な活動なんだなと思う。ま、できなくなっても違う系統の「人工的な自己肯定」の方法を編みだすんだと思うけどね。ぼくは自分のことをよくわかろうと努めることができるので、筋トレができない身体になったとしても、自分で足掻いて足掻いて、違う手法も見つけられるという確信がある。

ここまで書いてきたことは筋トレをしている最中ではなく筋トレの前後に思考を巡らせたときに考えること。筋トレをしている最中は無に近づきたいと思っているので、ネチネチ考えることを意図的に放棄しているきらいがある。

https://twitter.com/nishi_hy/status/1372546603173613571?s=20

もちろん怒りとか仕事における疲労とか、外見が素敵でぼくよりも遥かに筋肉量の多い男性に対する呪いめいた気持ちをこねくり回してエネルギーにした上で筋トレに励んでいる側面もある。自己肯定感に溢れた、自分は生きていていいに決まっているというポジティブな気配は伝わる。そういう方々を横目に、あなた達が生に対するポジティブな殺意をエネルギーにするなら、ぼくはネガティブな殺意をエネルギーにするよ、と思いながら死んだ魚のような目で筋トレに励んでいる。

皆が皆違うモチベーションで筋トレに励んでいる。陽キャラで自分は生きていていいんだという気配を醸しているように見える人も、実際に話してみたらそうではないかもしれない。外見や立ち振舞いからそうぼくがかんじているだけ、自分の劣等感を紛らわせたくてそうおもっているだけ。 だって、だって、だって、自分の筋トレに対する考え方は普通の人とは少し異なっておりユニークなものだと思わないとやっていられないから。 だって、自分より極めてすごい人達の筋トレに対する姿勢や捉え方がぼくとおなじだったら、ぼくの存在意義ってなくない? 存在意義なんて考えずに済むような光属性の方々に対する反逆めいた思考をしているのがぼくの存在意義? 存在意義なんてなくても存在していていいに決まっている? そんなことは理解している、でもそれで納得できるか、自分の魂にそれを染み込ませることができるかは全く別の話。別の話だからこんなにのたうち回りながら文章書いたり筋トレしたり試行錯誤して人工的な自己肯定を試みているのである。

何が言いたいのかよくわからなくなってしまったけれど、それが日記の醍醐味だよね~と思いましたとさ。めでたしめでたし。