感じたこと


内容


引用メモ


いかなる状況にも、人間は、ある態度をとることができる こんなふうに人間は、他者からすべてのものを奪うことができる。その人の自由でさえ も。ただし、そのような状況に対して、自分がどんな態度をとるかという自由は別である。 そしてこの態度こそが重要なものなのだ。

人は、自分自身に対して立ち向かうことができる そしてその上には新しい次元が開かれている。すなわち人間は、身体的および心理的な 現象とは明確に区別される精神的な (noëtic) 現象の次元に入っていく。人間は世界に対し てばかりでなく、自分自身に対しても立ち向かうことができるのである。

そのとき、私は、多くの思想家が英知の極みとして、その生涯から生み出し、多くの詩 人がそれについて歌ったあの真理を、生まれてはじめてつくづくと味わった。さ わった。すなわち、 愛は結局、人間の実存が高く昇りうる最後のものであり、最高のものであるという真理で ある。私は今、人間の思想と、そして信仰とが表現すべき究極の極みであるものの意味が わかったのであった。愛による、そして、愛の中の被造物の救い、これである。たとえ、 もはやこの地上に何も残っていなくても、人間は瞬間であれ、愛する人間の像に心の底深 く身を捧げることによって浄福になりうるということがわかったのである。

「何かむなしい」「どこかこのままではいられない」・・・・・・そういった「むなしさ」の感覚を、フランクルは、「実存的空虚」と命名しました。 「実存」というのは、人間の生々しい存在そのもの、といったニュアンスの言葉です。 生々しいリアルな存在、現実存在です。この「現実存在」の真ん中の二文字をとって「実存」と 呼んだのです。 日々の忙しい毎日の中で漂っている漠然とした「空虚感」。それが、「実存的空虚」です。 何かに不満があるわけではない。 飛びぬけて幸せだとは思わないけれども、自分のことを特に不幸せだとも感じない。 人並みには幸せな人生を送れていそうな気もしている。 けれどもその一方で、何かが足りない。 どこかむなしい。 満たされない。 つまらない。 それがずっと、 「心の底から満たされる何か」がない、と心のどこかでいつも感じている。

孤独になる勇気 過剰な労働と遠心的レジャーの間を行ったり来たりしている人は、ものをじっくり考え る時間がない。......(中略)...・・・私たちは、沈思と瞑想をおこなう新しいタイプの余暇を 必要としている。そのために人間は、孤独になる勇気が必要である。

すべては意味があるか、ないか、人は選びとらなくてはならない この世界と宇宙のすべてが意味に満ちていると考えるか、それともすべては無意味で空 虚であると考えるか。この二つの考えは、論理的には等しい価値がある。だからここで求 められるのは、もはや論理的な決定ではなくて、選択者自身の主体的な決断である。

正しく悩みぬかれた苦悩は、成長をもたらす 苦悩は、それ自体、すでに一つの「業績」である。そして、正しく悩みぬかれた苦悩は、 悩める人に、成長をもたらしてくれる。

人間は、人生から問いかけられている 世界体験の根源的な構造を振り返るために一歩退くと、人生の意味を求める問いにコペ ルニクス的転換が生じる。 人生が人間に問いを発してきている。したがって人間は、人生の意味を問い求める必要 はないのだ。人間はむしろ、人生から問いかけられている者なのであって、人生に答えな くてはならない。人生に責任を持って答えなくてはならないのである。そして人間が答え るこの答えは、人生からの具体的な問いに対する具体的な答えでなくてはならない。

どの人生の、どんなときにも当てはまる「人生の普遍的意味」は存在しない すべての人間に当てはまり、どの人のどんな人生の、どんなときにも当てはまるような 「人生の普遍的意味」は存在していない。